「皆様、ご覧じられよ。何ら欠けるものなき……」
そうして両腕をいっぱいに広げるや、後方に聳える稲葉山を軽々と背負う巨人となった。
「美濃の王にてござる」――終章 草かんばし(『ふたり道三(下)』 p.551)
「読書の夏」、リスト消化7作品目。近年主流となっている、斎藤道三は美濃の簒奪を親子二代で成し遂げた、という説を下敷きにした伝奇小説。
主役は題名からも分かるように二人。一人は刀匠でありながら諸事情あって武士に転身、やがて狂気の武将として周囲に恐れられるようになったおどろ丸=長井新左衛門尉。もう一人は京の学僧から油商家・奈良屋へ婿養子となり、天下獲りを志す青年・松波庄九郎=長井新九郎。因縁浅からぬこの二人が、時に対立し、時には手を結びながら美濃の国盗りを成し遂げていく、という流れ。
おどろ丸はこの作者にしては珍しいどちらかというえば陰性の人物なので、彼が中心となって話が動いていく序盤はなんとはなしに陰惨な影がつきまとってくるような感じ。逆に庄九郎は「ああ、宮本作品の主人公だねぇ……」という感じの爽やかで人望ある好青年。良くも悪くも、彼の以降は物語が必要以上に重くなることはなくなるので、随分と読み進めやすくなります。主役の二人だけではなく、脇にも敵味方とも個性的な面々が抜かりなく配置され、物語を盛り上げるのに一役買っています。中でもひときわ存在感を発揮するのはおどろ丸の奥方である関の方。おどろ丸に異常ともいえるほどの愛情を抱き、彼と自分の邪魔をする存在は何であろうと誰であろうと容赦しないという、恐ろしく病んでる人で……まぁなんというか、一途に思いつめすぎる女の人って怖いよね、みたいな(適当にお茶を濁す)
登場人物の魅力だけではなく、ある刀鍛冶の一族の背負う宿命、生涯の友や志を同じくする仲間との強い絆、美濃の覇権を巡って繰り広げられる謀略、宿敵との息詰まる戦い、そして血を分けた親子の相克などなどいろんな要素が詰まった物語は純粋に面白く、それなりの分量にもかかわらず一気に読んでしまえます。
そして終幕で描かれる情景。地の文でもその後のことが示唆されるし、そもそもこの先の歴史を知っている人間にはなんともいえない気持ちも抱かせるものの、これまで物語に渦巻いていた愛憎や怨讐が昇華されたかのような望外の美しさが強く印象に残ります。
2008年上半期ライトノベルサイト杯、結果発表。
主催者及び協力者の方々、お疲れ様でした。
とりあえず、『マーベラス・ツインズ』に私以外にも投票した方がいらっしゃったのが妙に嬉しかったです。次回以降も地味に票を集めてくれると嬉しいなー。
ともあれ今回の結果、新規開拓時に(最近あまりしなくなってるんだけど)ありがたく参考にさせてもらうことにしようと思います。
『神無き月十番目の夜』[飯嶋和一/小学館文庫]
「……何があった? この小生瀬で。言ってくれ。何もかもがおかしい。村の人々はどこへ行った? つい先頃までここで暮らしていたはずだ。十日夜(とおかんや)までは間違いなくここに皆住んでいた。それが今この百軒余りの宿場で、火を焚いているのはこの家だけだ。お前の親同胞も、皆どこへ行った……」
――序章 慶長七年(一六〇二)陰暦十月十三日 (p.15-p.16)
「読書の夏」、リスト消化6作品目。寡作ながらも実力派の作家として知られる飯嶋和一氏の作品。この作品は江戸時代初期に実際に起こったとされる百姓一揆を題材にした、一言でいうと傑作。……読後は十中八九、やりきれなくなるけど。
物語は、慶長七年(1602)の陰暦十月十三日、大藤嘉衛門が常陸にある山村・小生瀬に派遣されてきた場面から始まります。ほんの少し前まで普通の生活が営まれていた気配が確かにあるその村には、しかし人影は全くない。村人たちはどこに消えたのか、探索を続ける嘉衛門はやがて現地で聖域として特別視されている「カノハタ」に辿りつき、聖域とはかけ離れた地獄のような光景を目の当たりにします。一体この地で何が起こったのか……結末と疑問を示した後で、作中の時間はまだ小生瀬が平穏の中にあったころに遡り、何が起こってしまったのかが改めて語られていくことになります。
その内容に圧倒されページを繰る手は止まらなくなるものの、だからといってこれを単に面白いという言葉で括ってはいけないような気がしてしまう。それほどまでに凄惨な物語。村人の誇りと怒り、検地役人の役目と立場。どちらもほぼすべての情報が与えられる身としては理解できてしまうから、些細な行き違いから、取り返しようのないほどの惨劇に繋がっていく一連の過程がやるせない。また、緻密かつ抑制の利いた描写が生み出す独特の緊張感が、ひたひたと静かに迫る破滅の足音を嫌でも意識させてくれます。
誰もがそれぞれに考え、誰もがより良い結末を得ることを望んで様々な選択をしているのに、そのことごとくが最悪なものにしかなりえなかったという事実が、ひたすらに哀しい。そして、最悪な選択の積み重ねの果てに辿りついた結末の無残さには、もはや言葉すらありません……。
旧時代と新時代、支配と自由、恭順と抵抗、その軋轢の果てに消えた、悲劇の村の物語。
スレイヤーズREVOLUTION 第3~5話。
今期は全体的に演出が上手くないよなーと思ったりしつつも、相変わらず視聴継続中。
えーと、とりあえず今の流れのベースは、すぺしゃるでワイザーのおっちゃんが登場した話の変形版という理解でいいのかな? 新しく登場した(少なくとも当面の)悪役もルヴィナガルドの貴族だし。
おっちゃんに関しては「実はキレ者」な描写もちょこっとだけあり、単なる暴走キャラに改変されてないことが判明したので一安心というところ。
一方、オリキャラの謎の小動物ポコタはある意味まさかのレゾ&ザナッファー絡みのキャラに設定されてる模様。さらに5巻で味のある敵役として登場していたデュクリスも登場。
そういや、今までのアニメでは5巻のザナッファー関連分は触れられてなかったんだっけ?(うろ覚え) ということは、今回は6巻の内容だけじゃなくて、そのあたりも拾い上げていくことになるのかなー。で、今のエピソードが終わったらルーク&ミリーナも登場して本格的に原作第二部に突入とか!(いや、あんまり評判良くないっぽいけど、私結構二部も好きなんで)
あ、そうそう、5話目にしてゼロス登場。EDでは思いっきり仲間のような顔してるくせに、今のところは敵側についてるようです。まーこいつのことだから裏があるんだろうなー。そうでもないと写本を人目にさらすなんてしないだろうし。
で、最後にズーマの名前が出てきてこのままシリアス展開で盛り上げていくのか!?と思いきや、次回予告はどうもギャグの回らしく。うーむ、ズーマの参戦はまだ当分先になるのかなぁ。
『納得しなかった男―エンヴェル・パシャ 中東から中央アジアへ』[山内昌之/岩波書店]
私は何があっても絶対にここに残ります。私が斃れても、同胞たちが遺骸を埋めてくれる土くれがあります。この地を離れるのは、大きな誤りとなるでしょう。陛下の兵士たちには暇を出しました。
――アフガニスタンのアマーヌッラー国王への最後の書信(p.589)
「読書の夏」、リスト消化5作品目。青年トルコ革命で台頭し、第一次大戦で失脚・亡命するも汎テュルク主義の理想を掲げて様々な活動を続け、最後は中央アジアで反ソ連のゲリラ活動中に命を落としたエンヴェル・パシャの半生を扱った伝記。分類的には学術書のはずなのに小説のようにも読める、ある意味珍しい本。……どうでもいいことながら、私の中では何故かアタテュルクやトルコ共和国成立に関係する本を読んだら、次はこれを再読しなければならないというルールが成立している節があったりする。
それはさておき、本書で扱われるのはエンヴェルの生涯で最も華々しい時代ではなく、失脚以降。内容は波乱万丈で間違いなく面白いんだけど、その面白さが一般的な英雄物語としての面白さとはちょっと違うのが特徴かもしれません。なんかこう、遠くから生暖かい視線を送る気持ちになってしまうような、そんなダメダメなんだけど愛すべき人を見守る面白さというか(←酷) 真面目な話、幾度挫折し打ちのめされてもそのたびに立ち上がり次の行動に向かっていく姿は普通ならその不屈さに感じ入りそうなものなのですが、それよりもなんて懲りない人だと呆れる気持ちのほうが先に立つのが不思議だったりする(苦笑) エンヴェル評としては「夢想家」(byアタテュルク)というのがもっとも有名なものだと思いますが、これを読む限り確かにそう呼ぶしかないよなぁという感じ。とにかく読んでいると、「そこでなんでそういう方向に行くんですか」とか「いやいや、それは普通に考えて駄目だろう」とか「つーか、まずちゃんと現状把握しようよ」とツッコミたくなること多数なんですよねー。最終的に中央アジアで反ソ連の側に立って戦うことになったとき、かつての名声や地位の影響があるにしても現地での支持も得ているあたり、この人もやはり一定のカリスマあるいは人間的魅力がある人なんだろうとは思います。思いますが、立ち回りとかがどうにもこうにも。まぁなんというか、小説だったら多少は努力が報われてしかるべきなんでしょうが、そう上手くいかないのが現実というか、一人の人間としては魅力的でも指導者として適しているかどうかは別問題だよな、みたいな。
ライバル的存在のアタテュルクが良くも悪くも現実主義の化身というタイプなので、余計にエンヴェルの思考の甘さや楽観主義・理想主義といった類のものが目につくというのもありますが、それにしてもいくつかの軍事的成功はあるにしろ、何でこれで一時的にでも最高権力が握れたのかなぁとちょっと不思議にならなくもない。逆にいえば、それぐらい当時のオスマン帝国政府は人材不足だったということになるんでしょうが。まぁなんだかんだいいつつ、それでもこの人がいなければ、のちのアタテュルクの台頭もなかったかもしれないと思うと、多少は感慨深いものがあるような。
孤立無援となり殉教を覚悟したとき、彼の胸に去来した思いがどんなものだったのか。結局、彼は理想を現実のものにすることはできなかったけれども、理想に最後まで殉じることができたという意味では、とても幸せな人だったのかもしれません。