「ここにいるといいよ、お婆さん」
老婆は何が起こるか分からず、不安げにあたりを見回していた。旗手と守備兵が形式に則って旗を広げると、その顔は光がさしたようにたちまち輝く。旗手は新月旗を掲げた。トルコ国旗が頭上に翻る。
老婆は生気を漲らせ、背筋をのばし、誇らかに頭を上げた。そして連隊に混じり、視線を国旗に固定したまま村はずれの泉まで堂々と行進したのだった。――第二部「トルコの大攻撃」・第三章 大攻撃(p729)
「読書の夏」リスト消化、4作品目。戦間期に勃発した希土戦争の経緯を、(ガーズィー・)ムスタファ・ケマル・パシャを主人公として描いた……というより、彼はあくまで中心としてその他の多様な立場の人々の動きも同時に扱うことで多角的に描きだした群像劇、というほうがより正確か。第一部「ギリシャの大攻撃」と第二部「トルコの大攻撃」の二部構成。
実物を目にしたとき、予想以上分厚さ(解説含めて約800ページ)に驚かされ、さらに内容がケマルの一代記とか青年トルコ革命あたりの混乱から共和国成立までとかじゃなく、希土戦争だけというのにさらに吃驚。希土戦争だけでそんなにページ数使うというのは個人的にピンとこなかったのですが、読了後にはこれだけの大作になったのも納得せざるをえませんでした。膨大な史料と丹念な取材によって、紙上に再現された希土戦争は、とにかく圧巻。加えて、その内容は史実に忠実なだけの無味乾燥なものではなく、単純に読み物としての面白さも備えているので、一度ページを繰りだすともう最後まで手が止まりませんでした。(注意:もともとこのあたりの時代・歴史が好きだというひいき目あり)
トルコ人の作家の方が描かれている作品なので内容的には当然トルコびいきではありますが、基本的に文章は冷静。特にケマルの描写はもっと熱狂的な描写を想像してたので、多少の美化はあるものの比較的抑え気味だったのが意外といえば意外だったかも(まぁ言うまでもなく、魅せるところでは存分に魅せてくれるのですが) そのこともあってか全体的に、特定の人物よりも当時のトルコを席巻した熱狂的な空気や戦争そのものの再現に力を注いでいるという印象を受けました。それから、これまた当然ですが日本人とは異なる、もしくは気がつかないような視点からの指摘もあって、そういう意味でも興味深かったですね。
ちなみに読了後に真っ先に浮かんだ感想は、「明治維新も某ゲームではチート扱いされてるけど、トルコも大概だよなー」というなんとも身も蓋もないものでした(←本当に身も蓋もない) つーか、明治維新の場合は下地はあったしまだ納得できるんだけど、トルコの場合は下地がボロボロの状態から(数世紀に一人レベルの天才的指導者に牽引されたとはいえ)独立とその後の数多の改革を成し遂げたんだからなお凄いと思うのですよ……。
第一部「ギリシャの大攻撃」では、戦力差に余裕綽々のギリシャ軍(及び黒幕のイギリス政府)に対して、絶望的な状況にも屈せずに全国民的な抵抗体制を作り上げていくケマルとその周囲の人々の手腕、そして両軍がついに激突し熾烈な戦いが繰り広げられる「サカリア川の戦い」が見物。続く第二部「トルコの大攻撃」は、内外の敵対勢力との対決・駆け引きもさることながら、イズミル奪還を目指して行軍を開始するところから攻撃開始に至るまでの描写にぞくぞくきた。攻撃が始まって以降はその苛烈さに興奮し、占領から解放された人々それぞれの行動に胸が熱くなったり共感したりととにかく忙しかったです。これで攻撃命令が下される場面で「前進せよ。目標、地中海!」があったらなお良かったのになーと、個人的にはちょっと残念に思った。
もともと興味のある時代、題材、人物を扱った本だけに期待しまくって読みましたが、期待以上に内容ぎっしりの作品で満足。現在トルコで発売中らしい続編(というか前日談)『トルコ復活』の翻訳も希望。……でないと、語学の才能無視してトルコ語に手を出すしかない状況に追い込まれるので……。
『翡翠の封印』[夏目翠/中央公論新社・C☆NOVELS FANTASIA]
第4回C★NOVELS大賞の大賞受賞作。内容は、政略結婚で結びついた奔放な性格の少年王テオと異能持ちで感情に乏しい姫君セラの恋と、セラを狙う謎の影との戦いを描いたファンタジー、というところでしょうか。
読んだ感想としては、なんというか、コバルトかビーンズかはたまたX文庫か、というぐらい超王道な少女小説的ラブストーリィという印象でした。いや、それも別に悪いとはいわないけど、このレーベルに求めている傾向とはちょっと違うというか……。
まぁでも読んでる最中は、神殿育ち&自身に備わった異能のため当初は人間の感情に疎かったセラが、それまでに置かれていた環境とは全く違うヴェルマの王宮の人々と触れ合うことで、次第に人間らしさを得ていく過程とか、最初は行き違いもあって距離があったテオとセラが徐々に親しくなっていく過程とか、ベタながらも普通に楽しかったです。ただ、セラに付きまとった謎の存在の正体とか終盤の展開は、個人的にちょっと……いや、かなり物足りなかったかな。とりあえず、悪役がぺらぺら背景事情を懇切丁寧に語ってくれるのはあまり好きじゃないです。あと、国家レベルの問題があっさり解決しすぎだなーと。いや、次に読んだ本が読んだ本だったので余計にそんな印象が……(←それは明らかに比べる本が悪い)
何だかんだと物足りなさはあったものの、文章はまぁ嫌いなほうじゃないし、とりあえず次回作も読んでみようかとは思います。
0807購入メモ(その5)。
『トルコ狂乱 オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争』[トゥルグッド・オザクマン/三一書房]【amazon ・ boople ・ bk1】
『虚空の旅人』[上橋菜穂子/新潮文庫]【amazon ・ boople ・ bk1】
『忘れないと誓ったぼくがいた』[平山瑞穂/新潮文庫]【amazon ・ boople ・ bk1】
『紺碧のサリフィーラ』[天堂里砂/中央公論新社・C☆NOVELS FANTASIA]【amazon ・ boople ・ bk1】
『フリーランチの時代』[小川一水/ハヤカワ文庫JA]【amazon ・ boople ・ bk1】
『拝み屋横丁顛末記 十』[宮本福助/ZERO-SUM COMICS]【amazon ・ boople ・ bk1】
『この度は御愁傷様です』[宮本福助/モーニングKC]【amazon ・ boople ・ bk1】
『チェーザレ―破壊の創造者 5』[惣領冬実/モーニングKCDX]【amazon ・ boople ・ bk1】
WordPressのテーマを少し変更。
Trackping Separator2.0.1が公開されていたのでいったんアップグレードしたのですが、何かがおかしな具合に影響するのか個別記事でトラックバック内容が表示されないという事態に。
仕方なく元のバージョンに戻したのですが今度はずーっと新しいバージョンが利用できますよーというお知らせが表示されることになりちょっとばかり鬱陶しい。
こうなったらいっそプラグイン停止しちゃおうかなーでもコメントとトラックバックが一緒になるとやっぱりややっこしいかなーと悩みつつ、何かいい方法がないかgoogle先生に質問してみたら、「コメントとトラックバックを分けるのにプラグインは不要」という目から鱗な記事を発見。え、ということは、comment.phpは既に差替してるわけだし、Trackping Separator停めても問題ないの?とテストサイトで実験してみたら何の問題もなく分離して表示されてました……個別記事で分離して表示させるのにもこのプラグインが必要なんだとずっと思い込んでたよ……orz
ともあれ、これでプラグイン停止しても大丈夫と分かったわけですが、そうなると少なくともindex.phpの一部は修正が必要、ということで該当部分の記述を変更。
さらに「WordPress: ページタイトルの並びを変更する」という記事も見つけたので、これを参考にheader.phpの記述も変更&title suffixを停止。
それぞれ微妙な変更ですが、これで少しぐらいはブログのシェイプアップが図れたかな?
『鹿洲公案 清朝地方裁判官の記録』[藍鼎元/東洋文庫]
「藍鼎元か、これはどんな人物だ」
「一口に申さば、物事の軽重を弁えた男にございます」
吏部尚書の言葉が終るか終らぬうちに、雍正帝は膝を叩いて叫んだ。
「それだ。その者を呼べ」――「発端 ―実際にあってもいい話」(p7)
「読書の夏」リスト消化、3作品目。清朝は雍正帝の治世、不作が続き人民が困窮していた広東省潮陽県に長官として赴任した藍鼎元。彼が残した記録を、東洋史の碩学・宮崎市定先生が非常にリーダビリティの高い読み物として翻訳した一冊。
まず、宮崎先生の手によって序文代わりに書かれた小編「発端」に意表を突かれる。「実際にあってもいい話」という副題が添えられたその創作は、まるで陳舜臣氏の小説を思わせるような語り口で、自然と当時の社会や藍鼎元の置かれた状況に読者を誘ってくれます。
続いて始まる藍鼎元自身の手による「鹿洲公案」。「実際にあった話」であるこれが、また面白い。23編から構成されるその内容は、まるで包公か大岡越前かという感じの名裁き。本人の残した記録だから、若干は誇張や美化などもあるでしょうが、それを差し引いても、様々な難件を持前の胆力と機略を存分に発揮して解決へと導いていく藍鼎元の手腕は素晴らしくて、1編読み終えるたびに感嘆してしまいます。
言うまでもなく流暢で読みやすい訳文であることも手伝って、読んでいると翻訳小説でも読んでいるんじゃなかろうかと思わず疑ってしまいますが、あくまでこれは実話。それが何でこんなに面白い読み物になるのか。巻末の解題で宮崎先生も述べられているように、「出てくる人物はあくまで現実の人物で、それが期せずして複雑なドラマを構成」していることで、結果として「旧中国社会の実態を記した書として、これほど面白いものはないと思う。本当に小説よりも面白い」という内容になったということなんだろうけどなーと、読了後にぼんやりと考えた。まさに、事実は小説よりも奇なり。